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河合拓始のよしなしごと
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(先日(4.23)の演奏後にあれこれの方々に語り散らした勢いで、珍しく書いてみたこと)

シェルシの音楽はあまり知らなかった。高校生(か大学はじめ)の頃、FMラジオで平山美智子さんの歌う声楽曲が特集された番組で聴いたくらいだった。
その後"現代音楽"を聴くことから遠ざかっていた時期もわりに長くあって、CDでシェルシの音楽をいろいろ聴いてみはじめたのはまだ数年前くらいからのことだ。

一音から出発するという姿勢にシンパシーはある。
1998年、マンスリーライブシリーズ(計10回だったが)を行なったころ、納得のいく音を出すために、あまり音が出せなくなったときもあった。ハーモニーやメロディーなど既にある構築法のいちいちに距離を感じるため使うことができない。ひとつの音ならいい。そこからどう出発できるか、ということがあった。から。

真偽のほどがどこまでどうなのかはわからないが、シェルシは即興演奏を録音して譜起こしして(させて)作曲したという話。もしそれが本当だとすれば、(はじめて譜面をみたとき、即興演奏者の実感として、それは本当だと思える感じが、とてもしたのだが)、即興演奏ばかりやってきた自分にも何か演奏のとっかかりがあると思った。

市場に出ている、外国の演奏家によるシェルシのピアノ曲のCDを少し聴きながら、譜面をみたら、演奏が「解釈」をしようとしてるのに違和感がある。(シェルシじゃなくても、しばしば感じることだ)。それでは、音楽がカッコ付きの「音楽」になってしまって、偽物じみてくる。そうじゃなくて、まるで即興演奏のようにこの楽譜を弾けないかなと。(シェルシが)最初にこの音楽を中空から取り出したときのように。(最初に、と書いたが、ちなみに、そんなにオリジン/オリジナル神話にくみするつもりはない、譜起こしした楽譜だってそこからいろいろいじってるかもしれない、あまりいじってないかもしれないが)。なるべくその状態に戻って弾けないかなと。

そんなことで、シェルシを弾いてみようと思った次第。

ただ、そこで、シェルシが最初に弾いたのをそっくりそのまま真似することが理想なわけでもない。アドリブの完全コピー譜をそっくりそのまま真に迫って弾けたとしてもしょうがない。やっぱりいまここで、新たに作り直す、この身体が弾く即興、になってないと面白くない。新たな演奏として、作られたときと同じ態度で再演奏するならば、細部が変更されたってかまわない、とさえ言えるのかもしれないが、そこまではひとまず言わないことにする。譜面に定着する前の即興、そこに遡って、(「解釈」が、上から外から譜面をみているとするならば)下から内から底から譜面をみて辿っていくと、書かれてる音符や指示のいちいちが自然にそうなってくる。

という風にひとまずやってみたいと思って、やってみているが、どこまでできているかは、プロセス中。

しかしまあ、シェルシの音楽は濃い。あまり濃いとしんどくなるけれど、そこも、譜面を媒介にして、ある距離を置いた、再演奏になることで、もうすこし明るく風通しがよく開かれた感じに少しはなるかもしれない。あ、でもあまり語りすぎないでおこう。
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